「不確実性」と「遊び」
YouTubeで、あるユーチューバーが、道端に落ちているゴミ(飲食物の)を拾って、3日間そのゴミと同じものしか食べられないというチャレンジをやっていた。
どんなゴミが落ちているか分からないし、ペットボトルの飲み物ばかり見つかったりもする。観ているこっちもドキドキして、とても楽しめた。
それを観て、楽しい事、面白い事というのは、「不確実性」の中にあるんだなと思った。どうなるかわからない、大変な結果になるかもしれない、ドキドキ、ワクワク感。
「遊び」というのはそういう側面があるんだな。
ということは、生活している中では、いつも同じではなく、何か「不確実」な「ワクワク感」が必要ということ。それが、生活の、人生の張りを生み出していくと言えそうだ。
自分の好きなことでいいから、今までと少し違う何か新しい事をしていきたいものだ。
昨日と違う路地に寄ってもいい。
行ったことない街に行ってもいい。
食べたことがないものを食べてみよう。
読んだことのないジャンルの本を読もう。
なんだかワクワクしてきた。
ネガティブな感情をどうするか
怒り、悲しみ、恐怖。
そういったネガティブな感情。
それは必ずある。湧いてくる。
けれども、よくそれは「だめなもの」として、否定されたり、なかったことにしてしまう。
ずっとそうし続けていると、どうなるか。
たまり続けて、いつか爆発する。
メンタルの不調をきたす。
生きづらくなる。
日本人が、自己肯定感や自尊感情が少ないと言われているのも、これが大きく関わっているのではないかと思う。
周りの目を気にして、本当に自分が感じている感情を押さえ込んでしまう。
私は、日本人の「周りの人たちの事をよく考えて言動する」という価値観、習慣は素晴らしいと思っている。だからこそ秩序が保たれ、サービスも行き届く。
けれどもやっぱり周りの目を気にしすぎて自分の感情、意思、意見を軽んじてしまうと、どこかでひずみが生まれる。
嬉しいとか楽しいとか、ポジティブな感情だけが良くて、ネガティブな感情はだめということはない。その感情も、必要だからあるわけで。
自分に危険を知らせてくれたり、不快であることがわかったりする。
要は、その感情があるということをまず認めるのが大事ということ。目を背けたくなるのは当然だけど、大切なものとして取り扱う。
そして、それを表現するかどうか、さらにどう表現するかはまた別の課題であって、無視するのが一番だめだってこと。
だから子育てするうえでも、例えば泣いている子どもに対して「もう泣かないの」と言うのではなく、「痛かったね」「悔しかったね」「しんどかったね」と、ネガティブ感情を言葉にして、寄り添っていきたい。
私自身、自分の親にそれをしてもらえてたら、どれだけ良かったかと思う。子どもでも、大人でも、自分の感情を大切にしてもらったら、自分を尊重してもらえたと思える。そうしていきたい。そうしてもらいたい。
アサーティブなコミュニケーション
どうやったら人に自分の気持ちや要求を気持ちよく伝えられるだろう。
そういう本を今読んでいて、感心することしきりである。
『心が軽くなる!気持ちのいい伝え方』
森田 汐生
日本人は、大まかに言って「察する」ことを求め、自分もそうやっている。
それで問題なく人間関係が運べばいいのだが、そうはいかないことが多い。
自分の思う「察する」と、相手の思う「察する」は違うこともある。
そして、世間が、他人が、自分の思うようにならないと、腹を立てる。愚痴を言う。
だけどちょっと待てよ、その不満な事を相手に伝えてみた?表現してみた?(それを自分も相手も気持ち良い方法で)
伝えないで相手を責めるだけでは、何にもならない。何の進展もない。誰も得しない。人間関係もうまくいかない。
そういう状況がたくさんあるのではないか。
例えばよくあるのが、「ノーと言えない」場合。なぜノーと言えないのか、著書いわく、
「『断ってはいけない』という思い込み、自分の気持ちを決められないこと、そして、『ノー』の気持ちははっきりしているのに、その伝え方がわからないというスキルの問題です。」
なるほど…こういう理由があるのか。
表現の方法、その表現をする時の心持ちはどうすればいいか、をもっと学んでいって、少しずつでもやっていく必要があるんだな。
自分を大切にしつつ、相手も大切にしたコミュニケーション。
自分を否定せず、相手も否定しないコミュニケーション。
逆にそういうコミュニケーションができさえすれば、人間関係のかなりの部分の問題が解決する気がする。
人はみな
たまたま読んだ本。
『私の気持ち察してよ~ 夫へのモヤモヤがパッと晴れる考え方のコツ』
その中で、ほんまやなぁというか、深いなぁと思う言葉があった。
「人はみな、『あなたが大事』という他者の愛情を求めている」
というもの。
それが手に入らない時、怒ってでも手に入れようとする、と。
ほんまにそうやな、どんな人であれ、歳をとったとしても、子どもならなおさら、あなたが大事と言ってほしい。そう思わせてほしい。そういうふうに周りが接してくれるからこそ、自分を自分で大事にできるんだもんね。人間関係、人間の基本だよね。
思うこと
電車に毎日乗っていて思うこと。
混んでいる車内で、奥にいるひとが人をかき分けて降りようとするとき、何も言わずにグイグイと人を押しのけて出ようとする。
2人掛けの椅子に窓側に座っている人が、席を立って降りようとするとき、何も言わずに席を立ち、通路側の自分が立って席を譲る。
何か一言言ったらどうですか?
一言、「すいません」でいいんですよ。
言葉はダダなのよ。1人で行動してるんじゃないのよ。その一言を言わないのはなんでかしら。周りにいる人を認識してないように思えてしまうから、不愉快。
Habit
気持ちがクサクサする。
仕事も中途半端。週5働けない。
自分の所属する組織の活動も中途半端。真面目に純粋に、取り組んで苦労している人が目に入る。自分自身が中途半端。
自分の子どももゲームばっかで、今日はさぼって学校休んでる。
あーあ。
仕事ってこうよね。みんな苦労して働いてキツイ思いして稼いでなんぼだ。保育所ママとかすごいもん。フルタイムで働いてさ。
組織だってこういう人が理想やん。真剣に、期待に応えて、真面目にとりくむ。それが人生を豊かにするし、だからこそ自分の人生を肯定できる。
そういう風に思って、それができてないから落ち込む。
でもさ、それって、「どっかの誰かの基準」なんよね。自分の基準にしてしまわなくても、いいわけで。
考えるのが楽なのか、人間って自分以外の他の人を基準にしてしまうのよね。それを引っ張ってきて、勝手に自分に当てはめてしまう。これってサガなのかね。
そう思うとセカオワのHabit、いいとこ突いてる。
ちょっと気分がふわっとあがった。
ネガティブな気持ちに隠されたもの
私は、ある場面に会うと心がモヤモヤすることがある。
例えば、お母さんが赤ちゃんを優しく、またはテンション高くあやしているのを見た時。
それから、夫が自分の親に愚痴を言っているのを見た時。
「なんなん?」
「そんなの自分で消化したらええやん。」
のような気持ちが湧いてくる。
または、あぁ嫌やな、とか、しんどい、とか、
普段感じるネガティブな気持ち。
そういう自分の気持ちには耳を傾けずに「ダメなもの」としてスルーしてきた気がする。
けれども、ネガティブな感情、嫌だなと思うことって、裏を返せば、「自分の願望」が隠されているってことなんだよな。
お母さんが赤ちゃんをあやしているところにモヤモヤする→
「私も甘やかしてほしかった」
「甘えたかった」
夫の愚痴にモヤモヤする→
「どうにもならないことでも愚痴を言いたかった、聞いて欲しかった」
ってことなんだと思う。
そして、普段嫌だな、しんどいな、と思う気持ちは、「避けたい、逃げたい、疲れている」ってことを自分に教えてくれているってことなんだな。
世間の声、親の願望、そんなとこによってその自分の大切なシグナルを押さえ込んだり、こんな事思ってはいけないと否定したりしてしまっていた。
ネガティブ最高!