残念で仕方ない。
なんで結婚9年目にして突然そんなこと言われなければならないんだろう。
今年、離婚の話を夫から切り出された。
夫によると結婚当初からいつか離婚したいと思っていたらしい。
不満や嫌なこと、思っていることがあったならなぜ早めに言ってくれなかったのか。
言えなかったんだろうか。
信頼関係は初めからなく、年を重ねても私が一方的に信頼関係があると思っていただけか。
そう思うと、胸が痛い。悲しい。
残念でしたかがない。
夫婦って、ぶつかりながらやっていくものではないのか。そう思っているのは私だけだったんだね。
執着
自分は満たされてないと思っているから、何かにしがみつく。執着する。
満たされていると思えていれば、手放せる。執着しない。
自分の周りは実は満たされていると思いたい。
離婚について
「今後の僕たちのことについて考えたい」と離婚話を突きつけられてから半年たらず。
まだ、納得が行ってなかった。なんでそんなこと言い出すのかと。時間が経つにつれ、もし離婚したらということも少し冷静に考えれるようにはなったが、やっぱり怒りが湧いてくる。
別居している今も、もっと話し合いたい、なんで別れたいというのかちゃんと説明してもらいたい、という気持ちが強かった。怒りの気持ちがずっとあった。
けれども今日、やっと腑に落ちる感覚がやってきた。
仕事でパソコンに向かっている時、ふと夫の無邪気な、朗らかな雰囲気を思い出した。そんな夫の良さを、私は出せないように萎縮させてしまっていたんだと思った。悔しかった。もうそんな夫の姿を私は見られないのかと思うとすごく悲しかった。
夫は離婚の話を初めてした時、理由を「性格の不一致」と言った。「はぁ?」と思った。そんなよくある理由で逃げて乗り切ろうとしてるわけ?と。でも今日それが分かった気がした。
私が結婚以来イライラしたり、怒ったりして、彼を傷つけて、私の顔色を見るようにさせてしまったこと。
そして私の正論を突きつける態度に、彼の逃げ場を作らず追い詰めてしまったこと。
私はほんとに彼に申し訳ないことをした。
仕事中だけど涙が出た。
でも、それだけ?全部私が悪いの?
じゃあ私がイライラしたり怒ったりしなかったら良かったの?
でもそんなの聖人になるのは無理。結婚してからいろいろありすぎた。気持ちに余裕がなかった。私がそうなったのも仕方ない。そして、反省はもちろん必要だけど、私の性質は性質だし。
その時、受け流したり、できるだけ傷が付かないようにしたり、怒ったりして自分を表現したりっていうのが彼はできない人だったんだ。繊細ゆえに。溜め込んで、我慢して、傷付いてないふりをして。
私が悪い。それはそうだと思う。
彼は私が悪いとは言わなかった。「ただ性格の不一致」だと。それは彼の優しさかもしれない。
こんな話はあれだけど、今日こんなことを思った時、過去に会った人で、私が好きになりそうなタイプの人が思い浮かんだ。その人は既婚者だけど。こんな人とだったらいいのにと思った。落ち着いていて、心に余裕がある穏やかな人。私がイライラしても、受け流すか受け止められる人。自分の気持ちを表現して話し合える人。ワガママだけど、そんな人いるのかとも思うけど自分の求めていることがわかった。もちろん、自分もそういう風に成長していかなきゃだけど。
今までは、お互いの存在が、お互いを自分らしく過ごせないようにしてたってこと。とにかく、2人とも心に余裕がなさすぎた。
離婚って結婚生活の挫折、失敗って考えるとキツイけど、それぞれが「自分らしく生きられるようになる」ためにするって言ったらいいんじゃないか。
それに、失敗があるからわかることがあるし、次に進めるんだよね。
なんか、そんなことを色々と思ったら、半年ぶりに少しスッキリした。
夫にも素直に申し訳ないと思えたし、離婚してもいいと思った。
まだこの先どうなるかわからないけど、心の納得感というのが得られたというのが、大きな前進。
今日の気持ちを自分が忘れないように、思ったままに書きました。
母と信仰と私
このテーマはあまり書いてないと思うので、書いてみたいと思います。
私の母は2年前亡くなりました。自分にも人にも厳しく、信仰を貫き通しました。
母の信念は、「信仰の正しさを証明するために生きる」。自分の振る舞いや仕事など、模範的な人生を送るということです。それが、「実証」といいます。母は口を開けば「実証を示さなければ。」でした。亡くなる前までそうでした。
私も、小さい頃から母に習い信仰をしてきました。家族のような同志の中で、自然と信仰心が湧きました。
しかし、30代になり出産した後から、もう今までのように熱心には信仰できないと思いました。母みたいには無理だと。
それでいいと思いつつ、何故か、積極的に信仰活動ができないことにすごく罪悪感を抱くのです。
どうしても、その罪悪感や焦りのようなものが拭えない。苦しい。本当に苦しい。
どうしたらこの苦しみから楽になれるのか。
私は、母のことをとても愛していたんだと思います。愛しているから、その愛している人のしていた信仰ができないと、罪悪感を覚える。
そして、愛する人に喜んでもらいたいから、信仰をもっとやる。やらなければ。
でも、母はもういない。
だから、その愛を今度は自分に向けてあげよう。信仰は捨てなくてもいい。大切なものだよね。心にそっと持っておけばいい。積極的な活動をしなくてもあなたは実証を示している。もう背負わなくていいよ。もう十分頑張っているじゃない。生きているだけで、実証なんだよ。
そんなように、もし同じ信仰を持っている人が同じように苦しんでいたら、どう声を掛けるか、それを考えていこうと思います。そして、その言葉を自分にまずかけてあげよう。
本当の自分は怠け者なのかもしれない。
仕事以外、最低限の家事をして、あとやらなきゃいけないこと(至急ではない)は延ばし延ばしにしている。
やらなきゃいけないこととは。
・マイナンバーカードを申請する
・アハモの手続きをする
・届いたアマゾンの箱をあける
・使ってない子ども部屋を片付ける
・小学校の資料を整理する
・防災グッズをそろえる
こんなことだ。
やる気が出ない。
やるの、やだ。
それでいいじゃないかとも思う。
別に、すぐにやらなくてもいいなら。
私は、20代ぐらいまで、エネルギッシュで、こういう細かいことでも次々にこなして、まだなんかないか、と探すような感じだった。
ここ最近は、最低限のことをやって、週一は昼間、自分の時間にしてカフェに行き、インスタにアップしていいねをもらう生活。
それがなによりの至福。
それを生きがいにしている感じ。
唯一かもしれない自分の好きなことだ。
カフェでゆっくり、お茶やお菓子を食べる。
他人の用意してくれたものをいただく。
これが今の私である。
前の自分から言えば怠け者、ともいえるが、これが今の私。
怠け者、上等である。
スマホに縛られた生活
生活をしていて、何か時間が少しでも空くと、スマホを触っている自分がいる。メール、ニュース、インスタ。別に、急いで見ないといけないものはないのに。そうやって、3時間とか時間が過ぎていっている。なんか、虚しい。
言い訳。今は子どもに手がかかるから、コマ切れ時間しかない。そのコマ切れ時間とスマホの親和性が高いのだ。なんかちょっと、気分転換してくれているような気がして。
でもやっぱり、私は本当はゆったりと本を読みたい。新聞でもいい。デジタルもいいが、紙をめくりたい。手でめくるという行為は、なんか、大切なような気がする。何か、未知の扉を開けていくようなワクワク感がある。
スマホをあやつっているようで、自分があやつられている気がする。これでいいのか。何か、違うような気がする。
無気力でもいい理由。
この記事を見つけ、「わぁ、私この状態だわ!」と思ったのであります。
https://nemotohiroyuki.jp/everyday-psychology/39396
今の無気力(暇さえあれば横になってる)は、ある意味当然なんだと。
他人の期待に応えたい、他人と比べてどうこうという他人軸が減って自分軸になると、今までのエンジン(焦りや義務感からの)が動かせなくなって無気力になる。がんばれなくなる。
でもそれって、悪いこと?
私って、本当は努力家なのかな?
完璧主義なのかな?
本来はズボラでめんどくさがりで、社交的でもなくて…なんじゃないの?
それでいいんじゃないの、と思ったら、ホッとした。ゆで卵の薄皮がキレイに向けた感じ。
別にオシャレじゃなくてもいいんじゃない。
服買うのめんどうだし。
家が散らかっててもいいじゃない。
生活できてるし。
見ようによっては(見る人が見れば)堕落してるのかもしれないけど、自分軸でいく練習してるんだもん。自分が良けりゃいいんだもん。
もちろん自分の気分を良くするためにオシャレしたりとかはいいと思うけど、無理にしてもしんどいだけ。
楽していいやん。
楽でいいやん。