「〜しなければ」に隠れたもの
今、夜中3時。目が覚めてしまった。
最近、夜中に目が覚めて、その時重要な事にハッと気付くことがある。
今日は、私が今までどんなふうに生きてきたのかという事。
ちょうど3年前の今ごろ、苦しくて苦しくて、カウンセラーさんのところに駆け込んだ。
そしてそのカウンセラーさんに、今まで誰にも言わなかった様なことを全部吐き出して、受け止めてもらった。
その時浮かんできた感覚があった。
「今までの人生棒に振ってきた」ような、むなしさ。悔しさ。
自分を抑えに抑えて、がんばってきた。
なぜ?そこまでがんばってきたのか。
気付いたのは、「恐怖」。
恐怖を回避したくて、必死に努力した。
でもその努力は、どこまでいっても報われなくて、虚しい。
それができなければ!という恐怖がいつも付きまとうから。
今は「自分がホッとするには」というモノサシで過ごそうとしている。
「安心感」をベースにし始めている。
恐怖と安心感は、正反対だ。
同じ事をしたとしても、「納得感」「自由度」「自分の意思があるか」が全然違う。
自分の中から湧き出た努力なら、やめようと思った時でもやめられる。
恐怖からやる努力はどこまでいっても恐怖から逃れられない。縛られている。
私の母親は、よく
「〇〇しないと、〜できないよ」と私達子どもに言っていた。
私は
「〇〇したら、〜できるよ」となんで言ってくれないかなぁと思っていた。
それが、「恐怖からやる努力」と、「自分からやろうと思ってやる努力」の違いだ。
ちなみに私は今「努力」という言葉が嫌いだ。
その言葉だけ見るとすごくいい言葉で、否定しようがないのだが、表面的には同じでも、何から来る努力なのか、わからないからだ。
私もつい子どもに「〇〇しないと、〜できないよ」と言うことはあるけど、生き方に関してそれを言うのはやめておこうと思っている。
せいぜい「歯磨きしないと虫歯になるよ」ぐらいで止めておこう。
「恐怖心」「危機感」は時と場合によって大事だけど、それが生き方のベースになってしまうと、苦しい。
何年か前の日記に、
「私は〜せなあかん、ばっかり。あれせなあかん、これせなあかん。究極は生きないとあかん。」
というような事を書くぐらい辛かった記憶があるが、今思うと恐怖からやることの虚しさ・苦しさがあったんだと思う。
今自分がグダグダして落ち込んだり停滞しているように見えても、「この方向性でいいんだ」と思えた。