『理解という名の愛がほしい。』
この言葉は山田ズーニーという方の本のタイトルだが、名言だと思う。
大人になるにつれ、身体的な触れ合いなどよりも、「自分を理解してほしい」という“愛”を求めるのではないか。
それは結構切実で、子どもが抱っこしてほしいというような素直なものではなく、ねじれて表現されるような気がする。
少しでも責められたり、間違いを指摘されると、「自分は間違ってない!」と不満を表す。
昨日息子の宿題をやるのを横で見ていた。この間提出したひらがなの練習に、先生の直しが入っていた。それをまたなぞり直している時に、「なんでこれ直さないとあかんの、これでいいやん」と息子はすごく不満そうだった。
自分のやった事に「直し」が入るのが我慢ならないようだ。彼はプライドが高いとか、繊細とも言えるが、「“愛“がたっぷり必要なタイプ」とも言えるんじゃないか。
実際、小一の息子はものすごく甘えてくる。隙さえあれば膝に乗ってくる、ハグを求める。少し姿が見えないと探しにくる。とにかく近寄ってくる。私はそんなことできなかったなぁ。
大人になってもこれ(周りの人や社会に過度に愛を求める)では、傷つくことが多くなるんじゃないかと心配になるが、今しっかり満たしておくことでそれを少し緩和させることができるかもな。
というより、自分の心配をせよ。
私こそ、「自分を理解してほしい」と、いくら思っただろうか。今も思っている。
「理解は愛」だとすれば、自分で自分をわかってやり、受け入れていけば満たされるんだろうな。